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~ 自由に 氣楽に ~

稲垣えみ子 著『家事か地獄か 最期まですっくと生き抜く唯一の選択』

稲垣さんのご著書シリーズ第4弾です!

はっとする言葉が多く、備忘録としてまとめております。

 

2023年5月発行の最新刊です😙

稲垣えみ子

家事か地獄か  最期まですっくと生き抜く唯一の選択

 

稲垣さんは冷蔵庫も洗濯機も手放して、ガス契約せず、電気代は月に約200円という生活をされています。

 

稲垣さんに関する記事はこちらです。

enjoy-now.hatenablog.com

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稲垣さんの文章は大変読みやすく、また何より稲垣さんご自身が大変興味深いので、いつもすいすい読めます。

今回の『家事か地獄か』も読んでよかったです。

 

(p.21)

40年ぶりに再開したピアノは毎日最低2時間は練習しているから、亀の歩みであろうとそこそこ上達しつつある(と信じたい)。かねてやりたかったお茶も書道もバレエも編み物も始め、さらにはこれもかれこれ30年ぶりの絵も自由気ままに描き始めた。

いやー、なんてアーティスティックな毎日!

まるでどこぞのお姫様のよう・・・・・・そうだよ、地味ライフどころか、どう考えてもこれをこそ「豊かな生活」というのではないか?

 

(p.29)

私は生きている限り、いつだって満たされているのだ。

生きているだけでまるもうけ。

「足りないもの」など何もない。

 

(p.48~p.49)

冷蔵庫や電子レンジがあると、それを使ってあれこれ凝ったたいそうな料理を作ることが当たり前になってしまう。で、いつの間にか、日々、凝ったものを作ることのできない自分に敗北感や罪悪感を抱いたりしてしまう。

つまりはですね、便利なものっていうのは「自分」を見えなくするわけですね。本当の自分は案外ちょっとのことで満足できるのに、えらく大掛かりなことをしないと満足できない、幸せが得られないかのような錯覚を日々作り出していくという恐ろしい側面をもっているのであります。

 

(p.51)

便利をやめたら暮らしが単純になり、家事がラクにそして楽しくなった

 

(p.63)

私は今や、時間も、エネルギーも、健康も、美味しさも、つまりは全てを手に入れたのだ。しかも努力して手に入れたわけじゃなくて、全ては努力を手放したことで手に入ったのだ。間違いなく自分が一番びっくりしている。

 

(p.64)

当時の私が夢見ていたのは、日々、昨日とは違うごちそうを食べ、広い家に住み、山のような服を毎日取っ替え引っ替え着る・・・・・・という、お姫様のような暮らしがしたいという「可能性」である。でもそれは冷静に振り返ってみれば、実は自分自身が本当に求めていたわけではなく、際限なくモノを売るために誰かが意図的にこしらえた一つの物語にすぎなかったのではないだろうか。

 

(p.66)

もちろん、その素晴らしさは今までだってちゃんとそこにあった。でも私はいつだって、今ここにないものを追い求めること、そう「可能性」を追求することに忙しすぎて、足元に目を向ける余裕なんてこれっぽっちもなかったのである。

「ここにはないもの」ばかり見てきた私。つまりは何も見てなかった私。

そんな人間になぜ幸せが見つけられるというのだろう。

可能性を捨てることは、今ここにあるものの素晴らしさに気づくこと。

 

(p.95)

一言で言ってしまえば「欲に振り回されず、自立してシンプルに生きる」ということだ。そのように人生が単純になれば、人生の一部である家事も当然単純になるのである。

 

(p.96)

家事がラクになると生活コストが圧倒的に減る!

つまりはお金が貯まる!

 

(p.101)

便利をやめたらその分、どうしたって自分の中に知恵や経験が蓄積されていくんである。モノは思わぬことでいつ失われるかわからないし、災害グッズも時とともに劣化するけれど、知恵や経験は時とともに蓄積される一方である。

 

(p.108)

そう世の中には本当はゴミなんてないのだ。全てはうまく循環さえすれば、次世代に立派に命が受け継がれていくのである。そう考えると、自分もきっと社会のゴミなんかじゃないはずと思えてくる。人の目や評価を気にする必要なんてない。ただただ一生懸命生きればいいのだ。

 

(p.132)

使わないものは衰える。体も、頭も。

で、現代の我々の暮らしはどうか。便利を追求した結果、それまで人間がやってきたことをどんどん機械に任せるようになった。手で掃除しなくなったし、歩くこともしなくなったし、漢字も書かなくなった。検索ばかりして「思い出す」こともしなくなった。つまりは体も頭も恐ろしいほどの勢いでどんどん使わなくなっている。

そして、使わないものは衰える。

認知症患者が増えているのは、こうした環境と無縁ではないのではないかー。

 

(p.141)

まもなく還暦を迎える私も、これから年をとれば、今できていたことができなくなっていくだろう。でも、その時はさらに暮らしをシンプルにすればいいのではないかと思っている。持ち物をさらに減らし、食事もさらに単純にし、もっと小さな部屋で暮らせば家事もさらに楽になる。

 

(p.142)

便利に流されず、シンプルに自立して生きること、自分に備わった力を精一杯発揮し、他人と助け合って生きること。それさえできたなら、老いも災害も疫病もしなやかに乗り越えていくことができるのではないだろうか。

 

(p.190)

だから我らは不安なんじゃないだろうか?昔の人に比べたらずっとずっと豊かなものに囲まれて生きているのに、どこまでいっても満足できず、もっと、もっとと自分を追い立てているのは、何かを手に入れるほどに、自分の中身はすっからかんになっていってるからじゃないのか?

 

(p.191)

私はこれから、失われた自分自身を取り戻しに行くのだ。ものに頼らず金に頼らず、自分の内なる力を信じ、それを発掘し磨いて生きていけるかどうかへの挑戦が始まるのである。金やものがあれば豊かになれるのだと信じて疑わなかった人生から180度の転換である。

 (中略)

だってこれから先、私はどんどん年をとり、思うように稼げなくなってお金もものもどんどん失っていくことは間違いないのである。

 

(p.196)

便利をやめた私は日々、自分の中にこんな感覚があったのかと驚きながら暮らしている。まるで宝探しである。埋もれ、錆びついたお宝を一つ一つ掘り起こし、ホコリを払って油をさし、再び使えるようになったものが日に日に増えていく感覚である。

 

(p.206)

自分も含めて、人もモノも結局のところ、何かの役に立ってるってことが一番幸せなんだよねと大切なことに気づかされる。

逆に言えば、これまで大量のものを「ふきだまりスペース」にふきだまらせてきたということは、そのほとんどのものが活躍の場を与えられず「オレの存在価値って・・・・・・」と暗い気持ちで延々と過ごしていたということに他ならない。

 

(p.226~p.227)

自分は自分のままでダメなのだ、もっと何かを手に入れなければ幸せにならないのだと考え続けていたら、人生の時間はどこまでも足りず、一生は買い物で始まり買い物に終わることになろう。ひいてはお金の悩みも生涯ついて回ることになろう。

でももし、ここで良いのだ、自分は自分で良いのだ、自分はすでに全てを手に入れているのだと思うことができたなら。

それだけで、人生は間違いなく一変する。有り余る時間とエネルギーを使って、本当にやりたいことをどこまでもすることができる。

 

(p.257)

結局、「ラク家事」に目覚めた私が学んだ最大のことは、「自分で自分の面倒をみることができる」ということこそが、最高なんだってことだったのだと思う。

 

タイトルの『家事か地獄か』を初め見た時は、奇抜な感じがしましたが、読み終えてみるとなるほどと思います。

 

今回も深い内容でした。

稲垣さん、ありがとう。

 

 

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